大企業に入社したものの、 どこかやりがいを見出せないと感じていたり、ここではない環境を探したいと感じる人は多いのではないだろうか。
しかしながら、せっかく手に入れた「安定」を自ら手放すのはそう簡単ではない。周囲の声に悩み、やりがいとはなにかと頭を悩ませることもあるだろう。
そんな悩みを抱える人たちへ、新卒で製薬会社に入社したのにも関わらず、独立する決断を下した株式会社カケハシCEOの中尾氏はこう話す。
中尾「今、大企業からスタートアップに転職する人が増えています。もう大企業ばかりが安全な世の中ではないんです。もしも迷いを抱えている人がいるのなら、僕らみたいな会社をトントンとノックして話を聞いて、こんな世界があることを知ってもらえると嬉しいです」
もともと、独立志向が強くはなかったと語る中尾氏が、大企業を離れてまで独立したのには、いったいどのような意思決定が隠されているのだろうか。中尾氏のこれまでを紐解いた。
■中尾豊(なかお・ゆたか)ー株式会社カケハシ代表取締役CEO武田薬品工業株式会社入社後、MRとして活動。日本の医療の質の高さを感じると共に、患者さんへのサービスインフラの不備や医療従事者との情報格差の現状に気づく。医療業界において、サービス面で充実を図ることが多くの医療従事者や患者さんに貢献できる方法だと考え、独立を決意。2015年12月に同社を退職。「医療をつなぎ、医療を照らす」をビジョンに掲げ、株式会社カケハシを創業。
一度は大企業へ就職するものの、のちに独立を選択し、カケハシを創業する中尾氏。「そもそも、最初から独立を考えて大企業を選んだのか?」という編集部の問いに、中尾氏はすぐさま「いやいや」と首を振る。
中尾 「独立志向が高いわけではありませんでした。むしろ、大企業志向の学生だったと思います。大きい企業に勤めて社会人として安定したい、みたいなことを考えている、どこにでもいる普通の大学生でしたよ」
学生時代から、「ものとして存在するなにかを届ける仕事がしたい」と考えていた中尾氏は、化粧品・飲食などさまざまな業界のなかでも医療の分野を選択した。
また、自身の人当たりの良い性格から営業への配属を希望。武田薬品に入社後は、日本一の営業マンになろうと考え、とにかく手足を動かす毎日だったと語る。
中尾 「“日本一の”といっても、なにをもって日本一と定義するのかは難しい問題です。そこで僕は、与えられた環境で出すべき価値を定義し、そこでのアウトプットを重視しながら働いていました。入社直後の研修のときからそのようなことを考えて働いていたので、『頑張ってるな』と上司の評価ももらい、それなりのポジションに配属してもらえるようになりました」
横浜市の担当として病院など各医療現場に出向きながら営業を続けていると、3年も経った頃にはある程度武田薬品のシェアが取れてくるようになる。シェアが取れていることそのものは中尾氏自身の成果だが、一方で、この状況は中尾氏のわだかまりにつながっていた。
中尾 「不毛な戦いに突入したように感じたんです。医療現場では、『必ずこの治療が正しい』とは定義できない場面に数多く出会います。人によっては別の方法がいいかもしれない、なんてことばかりなんです。しかし、製薬メーカーの営業では、自社の薬をどれだけ多くの医療現場で導入してもらうか、が成果の指標になる。『本当にうちの薬がすべての患者さんのためになるのか?』と疑問が湧いてくるようになりました」
「誰の価値のために仕事をするのか」「一生かけて、この仕事を極めるのか」自己成長性も、社会的意義もわからないままに仕事を続けることへの戸惑いと悩みを抱えていた。そんなとき、タイミングを見計らったかのごとく、親戚からとある依頼が届いた。
中尾 「薬局の経営の事業承継を打診されたんです。引き継ぐと決めたわけではありませんでしたが、打診された2日後には事業を引き受けることも考えて、経営学を学べる大学院に通い始めました。昼は営業・夜はファイナンスとマーケティングの知識を学んでいましたね」
経営を学ぶことで、新しい世界に対する可能性を見出したと語る中尾氏。親戚の薬局を引き継ぐのか、それとも独立して事業を始めるのか、別の企業に転職するのか、今の企業に残るのか。決定には、3ヶ月以上の期間を要したという。
中尾 「経営を学んだことで、自分の人生にとっての“価値”について、強く考えるようになりました。すると、僕にとっての幸せは、誰かに対して価値が提供できることだったんです。社会的な貢献や自己成長性がもっとも大切な部分。その次に、はじめて収入のことを考えました」
「全国の患者さんに影響を与えるサービスを生み出すことで、自分が成長できたら嬉しい」中尾氏の根底にある考えをかたちにするためには、転職でもなく、薬局経営でもない、独立の選択肢がもっともマッチしたのだ。
中尾 「サービスを生み出せるならと考えて、一度は転職も検討してIT企業などに事業案を持ち込んだのですが、『まだ存在しないサービスの立ち上げに突然アサインするのは難しい』と言われてしまうことばかりでした。また、薬局を継いだとしても、日本全国に価値提供ができるサービスはつくれないですよね。そう考えると、独立が一番自分の理想を叶える選択肢なのだと気がつきました」
こうして、独立を決断した。「医療をつなぎ、医療を照らす」をビジョンに掲げるカケハシでは、電子薬歴システム「Musubi(ムスビ)」を提供している。これは、服薬指導に従事する薬剤師と薬を受け取る患者さんとがより良いコミュニケーションを育むために生まれたサービスだ。
中尾 「登記前には事業モデルをある程度決めて、200~300件の薬局を回りながらヒアリングをさせてもらったんです。ひとつの薬局あたり、3~4時間ほどの長い時間にわたって、薬剤師の働きを目の前で学ばせてもらっていました」
薬局のオペレーションを細かく見ていくと、現場でのオペレーションの不便さや、本来は薬剤師の仕事ではない業務が数多くあるのだという。
中尾 「薬局に足を運んで現場を見ると、本来あるべき姿と現状の姿とが、大きく乖離(かいり)しているように感じました。たとえば、薬局側は、病院でのカルテを確認できないため、処方せんやお薬手帳をもとに病気を推測するしかないんです。処方された薬の効果や効能は薬剤師がしっかりと患者さんに情報提供をしなければならない立場なのに、むしろ患者さんを質問責めにしながら病気や疾患を推測するんです。患者さんからのヒアリングベースの“TAKE”で終わり、患者さんへ価値を提供する“GIVE”をするオペレーションになりずらい環境がそこにはありました。そのほかにも、患者さんとの会話の内容をカルテに残す作業など、誰にも知られてはいない薬剤師の細かな作業が本当に多いんです。それならと、問題点を改善するためのサービスをつくることで、双方が幸せになるのではと考えました」
話題を中尾氏の決断へと戻す。独立を決断する、「Musubi」を生み出す、事業を成長させるなど、これまでの中尾氏の体験には迷いや悩みがつきものだ。いったい、これらの迷いを中尾氏はどのように捉え、解決まで導いてきたのだろうか。
中尾 「ロジックで解決できることならロジックで解決しますが、そうでないことの場合は、今の問題点がどこにあるのか見極めたり想像することから始めます。自分のキャリアでもサービスでも、あるべき姿と今との乖離を徹底的に考えますね。また、今までに選んだことのない選択肢は、多くの場合周囲の反対も伴います。『大企業に入社したのにどうして独立を』なんて、たくさん言われました。けれど、実際に独立したことのない人の反対意見を聞くよりも、自分自身がどうしたいのか問い続けなければ自分にとっての良い選択肢は見出せません。だから、最終的には自分で決断することが多いですね。他の人の意見を元に動いて人生が納得いかなかったときにその人のせいにしたくないですし、自分がやりたいことは何かを深く考えた上で、自分で動くことが重要だと思っています」
薬剤師と患者さんとの架け橋になるためにサービスを生み出すカケハシ。中尾氏が描く、これから先のカケハシの世界観はいったいどのようなものなのだろうか。
中尾 「患者さんが得する体験をつくり続けたいですね。近い未来でいうと、薬局に新しい価値を提供する文化をつくりたいと考えて構想を練っています。それより先の未来だと、3~5年後を目安に患者さんが家にいても得ができる世界をつくろうと考えています。薬局だけではなく、家にいながら薬剤師と会話ややりとりができて安心を得られたり、薬が受け取れる。そうなれば、患者さんも薬剤師もより距離感が近くなって身体的にも精神的にも安心できる世界が作れるのではないかと感じています」
さらに、今後はサービスだけではなく、医療現場に対してダイレクトにインパクトを与える世界観をも描いているという。
中尾 「あらゆる疾患に対して、薬と共に薬剤師のアドバイスによって得られたアウトカム(*1)を論文などでで発表できたらと思っています。リアルなデータをもとに発表できるので、きっとその論文を元に医療従事者や患者さんへも正しい情報を提供できる時代になるはずです」
*1:研究や治療などがもたらす、本質的な成果
適切でより良い医療が提供される未来に向けて、カケハシが描く先々の展望は明るい。インタビューの最後に、これからスタートアップの起業や転職を迷っている人に向けて、メッセージをいただいた。
中尾 「まず、一番大切なのは、自分の幸せを再定義することです。企業で勤めていると、その環境が普通になってしまって、なにがベストなのかわからなくなってしまうので。だから、今いる環境が、自分の幸せと一致しているのかをしっかりと考えることが大切です。
また、僕は大企業に勤めることは安全なのではなく、成長が止まっているならばむしろリスクなのではないかと考えています。大企業に所属することよりも、自分自身の能力を引き上げておくことでが後々どこでも働ける存在になるので、結果的にリスクヘッジになります。実際に時代もそう変わりつつあると思います」
一昔前とは、働き方にも考え方にも多様性が見られる昨今。もしも、これからの道に悩んでいるのなら、「幸せの再定義」で自分の人生を今一度考え直してみてはどうだろうか。
執筆:鈴木しの取材・編集:Brightlogg,inc.撮影:矢野拓実