時は1990年代前半。インターネットがまだ普及していない頃、オーストラリアで「たくさんの人に使ってもらえるソフトウェアを作ってみたい」と夢見ていた15歳の少年は今、日本で2度目の起業を成功させている。彼の名前は、ポールチャップマン。銀行口座、クレジットカード、電子マネー、マイル・ポイント、証券口座を自動で一括管理する個人資産管理サービス「Moneytree」を提供している、マネーツリー株式会社(以下、マネーツリー)のCEOだ。日本での起業当初、日本市場でのビジネスに活かせる人脈はなく、母国語ではない日本語を駆使しながら、ゼロから信用を勝ち取っていく必要があった。「Moneytree」は現在200万アカウントを超えるユーザーに支えられている。そして、40以上の他社サービスと連携し、金融プラットフォームとしても成長中だ。1度目の起業における反省点を生かした結果ともいえそうだ。オーストラリア生まれの15歳の少年が、日本で起業家として成功するまでのストーリーを、ご紹介しよう。
ポール「15歳の頃から、ソフトウェアを開発して、たくさんの人に使ってもらえるサービスを作ったら楽しそうだと考えていました。 当時はまだインターネットが普及していなかったので、図書館で本を借りて、プログラミングの勉強をしていました。パスカルという古い言語です。毎日夢中で勉強していましたね」
その後、交換留学生として日本に初めて訪れ、静岡で1年間過ごす。このとき、「将来日本に住みたい」そんな思いが芽生えた。留学生として日本にいた頃にはまだ光回線はなく、インターネットが一般的ではなかったが、オーストラリアへ帰国し大学に進学する頃には、インターネットブームが到来していた。大学在学中に、埼玉大学へ留学。日本への留学中にGoogleの検索エンジンに触れ、衝撃を受けた。
ポール「私がプログラミングに興味を持ったのは、クリエイティブなことがしたいと思ったからです。パソコンを使って作品を作るのは、とにかく楽しかったんです。 Googleをはじめ、革新的なインターネット企業が多く出てくるのをみているうちに、自分もソフトウェアを開発して起業したいと、徐々に考えるようになっていきました」
埼玉大学に留学していた頃、語学の勉強や合気道の練習などで忙しい日々の合間をぬって、ソフトウェアの受託開発を行っていた。
ポール「国からの奨学金もありましたが、それだけでは生活できなかったので、受託開発はアルバイトのような感覚でした。でもそのときの経験が、最初の起業に活かせました」
留学から戻り、大学の知人と起業プランについて話し合う中で、弁護士と法学部の卒業生が繋がることのできる、採用管理ソフトウェアを開発することになった。そして2000年。大学を卒業すると同時に、最初の会社cvMailをメルボルンで設立した。
オーストラリアの主要な弁護士事務所、そしてイギリスの大手の弁護士事務所のほとんどが、「cvMail」を導入。事業は3年のうちに急成長を遂げた。だが結果として、cvMailはトムソン・ロイターへ売却されることとなる。ポール氏はその理由をこう語る。
ポール「事業を手放した理由のひとつは、人間関係です。大学時代の知人とふたりでcvMailを立ち上げました。しかし、価値観や目指すゴールが共通しているかどうかなど、お互い確認する前にチームを組み、起業をしてしまいました。 きちんと確認しないままスタートを切ってしまったのは、23歳という若さゆえかもしれません。信頼関係を十分に築けず、結果チームとしてうまくいかなくなりました。 もうひとつは、メルボルンにスタートアップの土壌がなかったことです。競合がいなかったため、初心者が作ったソフトウェアでも急成長を遂げられた、というのはありますが、VCもメンターになってくれるような存在もいない状況で、事業をどう継続していけばいいのかわかりませんでした」
cvMailを売却した後、ポール氏は再び日本にやって来た。
ポール氏が日本にやってきた理由は、高校のときに始めて日本へ留学したときから夢見ていた「いつか日本に住んでみたい」という想いを叶えるため。そして、日本でソフトウェア関連の事業を立ち上げることに、ビジネスチャンスを感じていたからだ。
ポール「ある日、電車の中で『ものづくりの国 日本』というポスターを眺め、ふと考えました。なぜ日本はソフトウェア業界で有名ではないのだろう、と。 たとえば車は最初に設計図があり、その通りに作りますよね。でも、ソフトウェア開発においては、作りながら直すことも可能です。 日本の伝統的なIT企業の多くは、ウォーターフォール型の開発をしていました。これは、仕様書に沿って正確なものをつくる、ものづくりの考え方が影響しているのではないか、と感じたんです」
また、当時の日本は、2008年にiPhoneが発売されたものの、まだガラケーが全盛の時代。キャリアによる月額課金モデルが主流で、基本的には買い切りであるネイティブアプリとはビジネスモデルが全く異なるものだった。そのため各社スマートフォン向けアプリ開発に踏み切ることがなかなかできず、海外に遅れをとっていた。ここに可能性を感じたポール氏は、日本で二度目の起業をすることを決意。だがすぐには起業せず、エン・ジャパンの子会社で人材紹介業を手がけるen worldで、IT部長に就任した。
ポール「日本での起業を成功させるためには、日本の商習慣やマナー、起業ノウハウなどを学ぶ必要があると考えたんです。知識として知るだけでなく、実際に日本で働きながら肌で感じ、学び取っていきたいと思ったので、まずは日本の企業で働くことにしました。 また、日本語が母国語ではないので、言葉のハードルもあります。日本人が海外で起業する際も同じ経験をすると思いますが、海外で起業するには、大きな溝を埋めなければいけない。そのために、多くの時間を費やしました」
8年もの時間をかけて、日本語と日本の商習慣を学んでいったポール氏は、2012年、ついにマネーツリーを創業した。
Fintechに目をつけた理由は、日本の銀行のデジタルチャネルの貧弱さに、ニーズを感じたからだと言う。
ポール「当時の銀行の多くは、ネイティブアプリを持たず、スマートフォンサイトを提供していましたが、残念ながらユーザーにとって使いやすいものではありませんでした。 銀行側も、課題認識はありましたが、解決する術がなかったんです。銀行のシステムを作っていたのはほとんどが大手のSIerです。多くのSIerは、一般的なITインフラを提供するのはうまいのですが、コンシューマーが使うようなものを開発するノウハウを持っていませんでした」
そこで、1年間ステルスでアプリ開発に取り組み、個人資産管理アプリ「Moneytree」をリリースした。開発に1年もの期間を費やした理由は、最初からシリコンバレー並みの高いクオリティでアプリをリリースしたかったからだという。
ポール「日本人からしたら“よそ者”である外国人の起業家にとっては、アプリのクオリティがすべてでした。1回目の起業も、イグジットの成功事例はあったものの、海外での事例は実績として認められませんでした。 また、外国人ということで、うまくいかなかったらすぐに帰国してしまうのではないか、という目でも見られていました」
不信感を払拭するために、とにかくアプリのクオリティを高めることに注力した。
ポール「日本のiPhoneアプリは当時まだクオリティが低かったので、日本発の品質の高いアプリを作ることで、App Storeで高い評価を受けられるのではと考えました。そして、Apple社のBest of 2013・Best of 2014を2年連続で受賞することができました。 日本発の、しかもFintech分野のアプリとしてはかなり異例のことで、この表彰によって、大きな信頼を得ることができました」
また、信頼されている人の信頼を得て、信頼の輪を広げていくことも重要だと言う。
ポール「シリーズAでは、日本人の上級顧問が、投資家たちに向けて、私がいかに信頼できる人間なのか、というのを伝えてくれました。信頼の架け橋となってくれる人の信頼を得て、ひとつずつ歩みを進めていく。これも大切なことだと思います」
創業から6年、個人資産管理アプリ「Moneytree」のリリース、金融データプラットフォーム「MT LINK」のスタートと、順調に成長を遂げているマネーツリー。コアバリューのひとつに“Our Best Work.”(最善を尽くす)がある。ポール氏は社員が最善を尽くすための最善の状況を提供するのが、会社の役割と考えている。
ポール「社員には、うちの会社で働くことで、“well-being”――幸せを感じられるような、ヘルシーな社員体験をしてほしいと思っています。コーヒーがいつでも飲める、おいしいランチを提供するなど、会社が個人に対して提供できる付加価値は色々ありますが、マネーツリーでは、社員が長期的にどのようなキャリアのデザインしていきたいのかを一緒に考え、可能な限りサポートをしています。 加えて、採用プロセスにおいて評価システムを導入し、採用ミスを減らしています。お互いにとって不幸なことなので」
社員には定期的に、外部のコンサルタントによる、キャリアプランニングセッションを実施。社員が目指す方向性と実際のキャリアが合っているかどうかを定期的に確認し、社員にとっても会社にとっても良い相乗効果となる施策を取り入れていくべきと考えている。
ポール「日本の終身雇用はもはや過去のものです。しかし、頭ではわかっているものの、まだどこかで『安全な場所』を求めている人が多いように思います。 会社に安定を求めるよりも、自分の可能性を活かして働くことのできる環境で、自分の能力を極めていくことは、これからの時代において重要となってきます。人事=ルールと思っている方も多いですが、そうではなくヘルシーな社員体験を保証するのが会社のミッションなんです」
「自分の能力を極めていくことが重要」というポール氏の考えは、“有名企業出身”など後ろ盾がない中で、外国人起業家としてゼロから信頼を築き上げていった彼自身の経験から生まれた価値観だろう。
大企業にいれば一生安泰、という時代は終わった。大手企業からマネーツリーへやってくる人も増えているそうだ。
ポール「大企業からスタートアップに転職したい、という人は増えていますが、大企業出身の人であれば、商品やサービス、課金モデルがまだ固まりきっていない、アーリーステージのスタートアップは避けたほうがいいかもしれませんね。サービスや課金モデルが決まっていて、サービスを伸ばしていくフェーズにあるミドルステージがベストだと思います」
また、インターネットがなかった時代と比べて、今は起業の敷居は非常に低くなっており、起業を目指す若者も増えている。
ポール「起業する人は増えていますが、その分競争率も高くなってきているので、一人ではなく、なるべくチームで起業したほうがいいと思いますよ。 マネーツリーの場合は、それぞれ得意分野がある3人で創業し、成長とともに、不足している分野を補ってくれる人を迎え入れてきました。 スターウォーズでもハリーポッターでもそうですが、一緒に困難を乗り越えていける仲間がいるのは、心強いものですよ」
「たくさんの人に使ってもらえるソフトウェアを作ってみたい」という15歳のポール少年の夢は叶った。ひとり図書館でプログラミングの勉強をしていた彼は今、頼もしい仲間たちと一緒に、更なる夢を叶えるために歩みを進めている。ポール氏、そしてマネーツリーのストーリーは、これからも続いていく。
執筆:中村英里取材・編集:Brightlogg,inc.撮影:小池大介