周囲の人間にとっては、目を疑うような選択だったはずだ。
アメリカ留学を経て、新卒で外資系証券大手に入社。海外の名門大出身者が集まる、いわゆる「エリート」の世界だったという。
2015年のこと。その人は社を去る決心をした。転職先は、ベトナムに1店舗だけあるピザ店だ。その店やベトナムと特に深い関わりがあったわけではない。メールを送ったら、返事が来たから。
「周りからすれば謎ですよね」と田中卓さんは当時を思い出して笑う。
「でも僕にとっては正しい意思決定。むしろ、証券会社に居続けることの方がリスクだと思っていました」
田中さんはベトナムのピザ店を成長軌道に乗せた後、現地で独立起業を果たす。現在は、事業者向け食材EC(電子商取引)プラットフォームを運営するKAMEREOの代表だ。
KAMEREOはベトナムNO.1食材プラットフォームの地位を虎視眈々と窺う。そこに至るまでの道のりは、誰にも真似できないユニークな立身伝だ。
飲食に対する思いは子供の頃から芽生えていた。祖父や父親は食品関連の仕事に就いていて、自身も食べるのが大好き。いつかは飲食領域で起業するつもりだった。そんな田中さんは、大学卒業後に外資系証券大手クレディ・スイスの門を叩く。グローバルな仕事をしながら、金融やビジネスについて学ぶためだ。
田中さんの担当は法人向けの日本株営業。自由かつ個人プレーが重視される気風で、「良くも悪くも何も教えてくれなかった」(田中さん)。ギリシャ危機の影響で人員整理が実施されたこともあり、入社後すぐに年季の入ったプロとの商談を任された。
「MIXIやガンホーなどネット系企業の株が注目されていたため、延々とゲームをして良さを理解しました。注目の外食チェーンがあれば店舗を食べ歩く。若手だからこそ分かるテックのトレンドや、足で稼いだ情報で差別化を図っていました」
IR関連の業務も手がけるなかで、飲食系企業のトップと話す機会にも恵まれるようになる。わずかな雑談の時間で質問を投げかけた。「将来、飲食で起業しようと思うのですが…」。
答えはいずれも同じだった。人口減少や競争過多のため国内市場は大きく伸びづらい。その一方で海外には大きなポテンシャルがある。納得した田中さんはパソコンを立ち上げ、検索エンジンに言葉を打ち込んだ。
「東南アジア 飲食」
「飲食 海外」
ベトナムにあるピザ店のブログが目に留まった。当時はまだ1店舗しかなかったが、今後は事業を拡大させたいとある。田中さんはメールを送ってみた。「証券会社に勤めているのですが、飲食業に携わりたいんです」。
話がしたいとピザ店から返事がきた。Skypeで通話した後、休暇を取って人生初のベトナムへ。そこで田中さんが見たのは、経済成長への期待に溢れる現地社会だった。バブル崩壊後の日本で育ってきた田中さんは衝撃を受ける。
「日本は良くても『明日は現状維持』ですよね。でもベトナムの人は『明日は今日より良くなる』とみんな笑っていたんです。日本にはない世界観でした」
この環境で仕事をしたい。田中さんはクレディ・スイスを去り、ピザ店への就職を決める。衝動的な判断ではないと自信を持って言える。
「(周りから色々言われることも)あったかもしれないけれど、別に気にならなかった。証券会社に居続けることの方がリスクです。5、6年も残れば給料も上がっていき、家族もいれば生活水準を下げられなくなる。つまり辞められない。一回きりの人生なのに、やりたいことが出来なくなってしまう」
田中さんのゴールは証券会社で上を目指すことではなく、飲食事業を興すことだ。証券会社で得たファイナンスの知識は強力な武器になる。だがそれだけでは足りないという確信が、ベトナム行きの背中を押した。
「株価や決算、P/L(損益計算書)・B/S(貸借対照表)など表面的なことは分かりますが、外から会社を見ているだけです。会社経営はもっと人間臭いものだと思っていました。証券会社の同僚は皆エリートばかりで、『A』といえば『A』と分かる人たちです。でも全ての人間がロジックで動くわけではない」
「人種や宗教、学歴など、物事の前提や生きてきた環境が違う人たちの中で、どう自分の考えを理解してもらうのか。それは証券会社では得られないものです」
2015年1月からピザ店勤務が始まった。
椅子や机を整え、サラダを混ぜた。予約の電話を受け、クレーム対応にも当たる。そんな日々が田中さんを待っていた。海外の名門大出身者らエリートが集う証券会社とは全くの別世界。それだけに学びも大きかった。
こんな出来事もあった。ピザ店が仕入れるカニの値段は重量によって決まる。ここに目をつけた出入り業者がカニのハサミを固定するヒモに水を含ませ、重さをかさ増ししていたことが発覚。同時に、田中さんの部下にあたる従業員が加担していた疑惑も浮上した。
「このとき、『疑惑』の段階だったにも関わらず、しっかりと確認せずに従業員を問い詰めてしまいました。良くない対応だったと反省しています。大事なのは信頼することです。一緒に(事実関係を)チェックするなど当たり前のことをすべきだった。それに、仮に不正があったとしても、悪いのはそれを可能にしている経営陣です。根本的な解決をせずに従業員に言うのは違う。ヒモはプラスチックに変えました」
田中さんは店舗勤務を経て、COOとして事業展開を支えていくことになる。店舗数は10に拡大し、従業員も60人程度から1,000人規模へ増えた。ベトナム社会に根を張り、多様なバックグラウンドを持つ従業員らと事業を進めた3年間は、田中さんにこれまでになかった視点をもたらすようになる。
「外国人の自分が1人で出来ることなんて、ちっぽけなもの。チームが同じバリュー(価値観)に向かってまとまることが大切で、それこそ僕が一番やるべきことです。(チーム作りの過程で)いっぱい失敗しましたし、悩みもしました。でも、それが大きかった」
ベトナムで飲食事業に携わるうちに、田中さんは現地社会の抱える課題に辿り着く。食材の仕入れといえば主なルートは近くの市場を回って買うか、買い物代行を頼むか。そのため量、質、価格が安定しない。生産者と店舗をつなぐプラットフォームを構想した。
最初は受発注だけを手がけるプラットフォームとしたが、時間通りに配送されなかったり、間違ったものが届いたりとクレームが頻出。野菜など食料品の出荷場から店舗配送まで、上流から下流までの全てを自社で手がけることにした。
こうした生まれたのがKAMEREOだ。
「日本と違ってベトナムは(食品の配送)インフラがなかった。インフラがないからこそ、作り上げるオポチュニティ(機会)が存在する。マーケット自体も伸びていき、一番になれる可能性もある。日本よりも面白いと思ったんです」
とはいえ、ベトナム社会になかったものをゼロから作り上げるのは簡単ではない。「明日は今日より何かを良くする、と改善の毎日でした」と田中さん。地道な努力が実を結び、事業は順調に進むかと思えた。しかし程なくして、ベトナム社会にコロナ禍が訪れる。
ベトナム政府は当時、「ゼロコロナ」と呼ばれる厳しい感染対策をとった。人の移動や企業活動などが大幅に制限され、「1ヶ月間家から出られない期間もあった」と田中さんは振り返る。事業は大幅な減速を余儀なくされる。
「自分がコントロール出来ることと、出来ないことを分けて考えました。コロナ対策に文句を言っても意味がありません。中長期の経営戦略やコア・バリューの見直しなどに時間を費やしました」
「幸運だったのは、ロックダウンの1ヶ月前に資金調達を終えていたことです。起業家のメンタルは銀行残高にある程度比例します。『当面死ぬことはない』と思えました」
KAMEREOが運営しているホーチミン市で感染対策が緩和されたのは2021年9月のこと(参考:ジェトロ)。「ウィズコロナ」への移行とともに息を吹き返し、その後、毎年の年間売上成長率は300%を超えるなど成長軌道に乗っていくことになる。
田中さんは、ベトナムで唯一無二のインフラを作り上げるつもりだ。2024年はホーチミン市以外にも展開させ、構築したインフラを活用した新たな事業も進める。パートナー候補として、日本の事業会社からの資金調達も視野に入れる。
「この先20年、30年を見据えて新たな事業軸を作りにいく中で、一緒にベトナム市場に取り組んでくれるパートナーがいれば議論したい。短期間で資金調達を繰り返しては目線は上向きませんから、多めに調達したいですね」
「エリート」の一員として社会に出てから、ベトナムに飛び出し、起業家としてコロナ禍を乗り越えた10年余り。田中さんは感慨深げに振り返る。
「それぞれの経験が生きています。どれも必要でした。結局、失敗しないと学ばないんです。だから早いうちに色々な失敗が出来て良かった。今の事業を25歳の僕が出来たかと言えば、出来なかった」
元々、人と同じことはしたくない性分だ。新しい挑戦をしても、3年もすれば見慣れた仕事が多くなり成長速度が鈍ってきたと感じる。だが起業してからは違う景色が見えている。力を尽くせる場所を見つけたと実感している。
「起業はフェーズごとに仕事が変わるから飽きない。最初は自ら営業もしていましたが、今は長期的な視点に立って動けている。ベトナムはマーケットが大きいし、伸びていく。そこで一番になれる可能性がある。このチャレンジを続けていきたい」