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天才じゃないなら倍の努力をすればいい。殿堂入りヘッドハンターの仕事の流儀

2019-03-27
STARTUPS JOURNAL編集部
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STARTUPS JOURNAL編集部
天才じゃないなら倍の努力をすればいい。敏腕ヘッドハンターの仕事の流儀

20代、30代の経営者のチャレンジが目立つスタートアップ領域。しかし、チャレンジは若者だけの特権ではないし、一部の限られた天才たちだけのものではない。世の中にはかつての弱い自分と向き合い、それを克服し、本気で世界を変える、日本を進化させるために奮闘する挑戦者も存在するのだ。そのひとりが、本メディアを運営するフォースタートアップス株式会社代表の、志水雄一郎。スタートアップへの出資から起業・転職支援まで多角的にスタートアップを支援しており、日本一の成長産業支援プラットフォームを構築すべく奔走している。そんな志水は、自身の成功と転落、40歳で見つけた成すべきことについて話してくれた。何かに挑戦することに対して思いとどまっている方、諦めきれないビジョンを持ち続けている方に届けば幸いだ。

人生のどん底から半年間でトップに上り詰めた成功体験とその理由

人生のどん底から半年間でトップに上り詰めた成功体験とその理由

志水といえば、インテリジェンスでの求人媒体「DODA」立ち上げ、「Japan Headhunter Awards』ではHeadhunter of The Yearを2年連続受賞して国内初の殿堂入りを果たすなど、輝かしい経歴が目立つ。優秀なビジネスパーソンであろうことは想像に難くない。中高は九州の難関、久留米大学附設。同級生には孫泰蔵氏(以下、泰蔵氏)や堀江貴文氏がいた。その後、慶應義塾大学SFCへ入学するなど、エリートを思わせる経歴である。若かりしときはどんな学生、ビジネスパーソンだったのだろうか。

志水「実際は人に自慢できるような学生ではなかったんですよ。久留米大附設を目指した理由も不純でした。学区内の中学は、坊主頭が必須でそれが嫌で勉強したら、思いのほか成績があがって、『久留米大附設を受けてみたら?』と塾の先生に言われたからでした。しかも、入学後結果的には坊主頭になって……(笑)。 中学・高校時代はサッカーとバンド活動ばかりやって、高校3年の時の偏差値は37です。SFCに行ったのも、もともと藝大を目指していたのですが、SFCがテクノロジーアートをやっていると知ったので受けてみたんです。大学に入っても1年生からスポーツカーを乗り回して、週に2、3回はクラブをはしごするようないわゆるボンボン学生でした。今思えばダメな学生でしたね(笑)」

中途半端な学生だったと笑いながら話す志水は、その後、マスコミ業界を目指して就活を行い、内定を獲得する。しかし、偶然出会ったインテリジェンスに魅力を感じ、マスコミの内定を辞退しインテリジェンスに就職することに。当時のインテリジェンスは60人くらいの組織、誰もが創業者の宇野康秀氏(現在は、株式会社USEN-NEXT HOLDINGS 代表取締役社長CEO)に惹かれて入社していた時代。志水のほかにもコンサル会社や大手広告代理店・総合商社を蹴って入社した人が殆どという人気だったという。

志水インテリジェンスに行った理由も、ベンチャーやHR業界に興味があったからではないんです。なにせバイトもしたことがなく、働く意味も分かっていませんでしたから。当時、インテリジェンスが青山にあったのと、カタカナの社名が格好良くて応募したんです。今でこそ、転職の際にはリサーチとデューデリが大事だといっているのに、当時の僕は何も分かっていませんでしたね。 入社して3年くらいは何事にも斜に構えていて、人生を棒に振った期間でした。正直、自他共に認める不良社員だったんです」

当然営業成績もあがらず、給与も低く、お金も尽きてくる。そのような日々が続いたある時、「自分は、実力もないし、とくに良いポジションにもついておらず、資産もない。このままブレイクしなかったら人生終わるな」と志水は奮起した。

志水「ブレイクしないととは思うものの、何をすればいいかわかりませんでした。そこで、とりあえず営業成績1番を目指すことにしました。営業成績がビリだった私が考えたことは、1番の人の2倍やるという単純なこと。普通に働いても追いつけないなら週末も働けばいいし、平日は深夜まで働けばいいし、ご飯は半分の時間ですませばいいし、歩くスピードは倍にすればいい。 そんな働き方を続けていたら半年くらいで圧倒的なトップになりました。その後は管理職にもなって、プレイングマネジャーとして1番を張り続けられましたね。この成功体験は今でも活きてます。結局、量からしか質は生まれないんですよ。量をこなすからこそ、そこに工夫が生まれますし、それが仕事の質に昇華されていきます。最初から考え込む人もいますが、私は難しく考える前に人の倍働いた方がいいと思っています」

再起をかけたDODAの立ち上げ

再起をかけたDODAの立ち上げ

圧倒的な量により成功を掴むも、その栄光は長くは続かない。ポジションが与えられ、収入も上がり、自信もついていった時、一瞬の気の緩みから綻びが生まれた。仕事の調子が少し下がったタイミングで、当時マネジメントをしていたメンバーから「あの人って遊んでるだけだよね」と、引きずり落とされたのだ。それまで鉄人のように働き、公私ともに充実していた志水のメンタルは、それをきっかけに一気に崩れた。会社には通っていたものの、電車には一駅ずつしか乗ることができず、夜中に具合が悪くなる日々が続いた。

志水「当時は心も体もボロボロな状態。このまま死ぬのかな?って思うこともありました。でも病院で先生から『人は簡単に死なないから不安にならなくていい』と言われたおかげで気が楽になり、少しずつ回復。半年ほどで完全に回復しました」

同時に最悪の状態から「抜け出したい」と思っていた志水に転機が訪れる。会社として次のフェーズに向かうために、新規事業のプロジェクトが立ち上がったのだ。その時、志水が提案したのが、リクルートに対抗するための転職サイト事業の立ち上げ、後の「DODA」だ。結果、見事にその事業提案は役員会で承認がおりたのだ。

志水「当時は『この状態を抜け出したい』と思っていたので、新規事業を推進するポジションが与えられなかったら、辞めていたかもしれませんね。ただ役員会では、一度躓いている自分に会社の未来を担う新規事業を任せるのは反対だったようです。しかし、役員のひとりが『失敗したら俺が責任を被る』といってくれて、任せてくれました。このときは僕も失敗できないと思いましたね。 新規事業立ち上げのために、当初集ったメンバーは、エース級のメンバーというわけではありませんでした。しかし、出来たばかりの誰も知らないサービスで、チーム一丸となって数字を上げていくさまを見て、『組織』の大事さというものを感じたのです。それまで僕のチームというのは、仕事ができる僕に、仕事ができるメンバーがついていたので『個』の力で成果が上がっていました。でもこのときは、メンバーの『和』によって成果が上がっていたのです。DODAの立ち上げには、チームのメンバー含め、多くの人が関わってくれました。本当に幸せな立ち位置だったなって思いますね」

コンプレックスの中での泰蔵氏との再会

コンプレックスの中での泰蔵氏との再会

40歳を過ぎた頃、次第に現在の環境から抜け出して、もっと先に行きたいと思うようになる。

志水「当時はSNSが嫌いでしたね。同級生の泰蔵くんとか、みんなキラキラしているように見えて。自分には発信することは何もなかったんです。お山の大将で仕事をしていましたし、給料もしっかりいただいていましたけど、どこか満たされない気持ちでした。それで今の状況から、再び抜け出そうと思ったんです」

その後、転職を考えた志水にはさまざまな会社からオファーがきた。結果、志水が新しい挑戦の場として選んだのが、同業のセントメディア。

志水「セントメディアの方々と話したときに、素直で人の良い方ばかりだなと思ったんです。初期のインテリジェンスに雰囲気も似ていたし、この環境なら自分でも貢献できることあるんじゃないかって。 あと、より貢献できるようにするために、僕の入社の条件としてもうひとり入社させることを提示したんです。彼は一緒にDODAを立ち上げた人だったのですが、僕よりも先にインテリジェンスを辞めて実家の手伝いをしていました。彼とだったら何かできると思い、ふたりで入社させてもらったんです」

セントメディアに入社する前から、新規事業立ち上げのためにリサーチしていくと2つ道が見えてくる。

志水「リサーチをしていくと、日本の市場がシュリンクしていることや、世界で伸びている領域が見えてくる。やるべきことは、『日本に対して進化を提供する』もしくは『衰退の中で生まれるものを拾うか』2つのどちらかだと思ったのです。言い換えれば、新しいマーケットを作りにいくか、自然発生するマーケットに乗るか。僕自身がどちらにより価値を感じるかを考え、進化を提供する道を選びました。ただ、これまで関わりをもっておらず、知見もない、もっといえばキラキラした人たちが活躍する、苦手意識がある分野でした」

そんな折、高校の同級生でもある泰蔵氏との再会の機会が訪れる。SNSで泰蔵氏が「今夜飲みたい」と投稿しているのを見た志水は、連絡するのに戸惑った。キラキラした世界で成功している同級生に自分はどんな顔をして会えばいいんだろう。「ご無沙汰しております」結局30分も悩んだ挙げ句、志水が送った挨拶は敬語だった。「久しぶりやね」すぐに返ってきた返信は同級生のそれだった。その後向かった飲みの席には、メルカリ小泉氏、識学 安藤氏など、後に市場を席巻する経営者達がならんでいた。そんな中、約20年ぶりに再会した同級生は、志水に彼ならではの悩みを打ち明けてくれた。ずっと遠くに感じていた泰蔵氏を、身近に感じられた瞬間だった「志水くん、俺のために仕事してくれよ」悩みを打ち明けてくれた泰蔵氏は最後にそういってくれた。この一言が後に、泰蔵氏と一緒に「SLUSH ASIA(現在のSLUSH TOKYO)」をサポートしていくなどの活動に繋がっていったのだ。泰蔵氏との出会いが、長年志水を縛っていたコンプレックスを解いてくれたのかもしれない。

全てはインプットから始まる

全てはインプットから始まる

2016年にセントメディアからカーブアウトし、for Startups, Inc.(立ち上げ当時は、NET jinzai bank)を設立。2017年・45歳でMBO後、ミッション・ビジョンに向かって最速の成長を目指すチームを率いる志水。かつてはメディアの向こう側にいる存在だった起業家や投資家たちと、今は日本の成長のために日々熱い議論を交わす日々を送っている。

志水「日本の名だたる起業家や投資家の方々とお話させていただくことで、これからの世界がどうなっていくのかを知ることができました。その中で、自然と自分の役割を知ることもできました。そして、知ってしまったからにはやるしかありません。昔はお金をいっぱい稼いで、いいところに住むということがひとつのステータスでしたが、今はそれに価値を感じなくなりましたね。もっとやるべきことがいっぱいあるからです。 起業家の方々とお話していると、すごく素敵な世界観を持ってる方がいっぱいいます。そして、そういう方はやはりインプットの量が違います。私自身、この年齢になってからインプットの量の大事さを痛感しています。インプットがあるからこそ、現状の課題をリアルに感じられますし、そのための行動をとることもできます。世の中に知らないでは済まされないこともありますし、そう考えると『インプットしない悪』『知ろうとしないことの悪』というものがあるように感じますね」

今は、昔では考えられなかったような質の高いインプットに恵まれているという志水。ではいったい、その質の高いインプットはどのように得ているのだろうか。

志水「今は僕の周りに本当に素晴らしい起業家や投資家の方々がいっぱいいます。そのような方々にインプットの場を作っていただけるので、自然にいいインプットがたくさん入ってくるんです。実は昔から遊びでも、周りに情報感度の高い友達が多かったので、向こうから楽しいことにどんどん誘ってくれていました。今は遊びがビジネスに変わっただけですね。 しかし、そういったネットワークも勝手にできているわけでなく、日々のコミュニケーションから構築されているんです。例えば僕は毎日夜の0時から0時30分まで誕生日おめでとうメッセージを送るっていうことを5年続けています。今、フェイスブックの友達が最大人数の5000人。中身の濃い5000人が投稿する内容はもちろん良質な情報なので、それだけでも質の高いインプットになります。あれだけ嫌いだったSNSでしたが今は大好きですし、生きるための情報源になっていますね」

インタビューの最後に志水は「人は何歳になってもチャンスが本当にたくさんあります。僕が頑張っているのは普通の人でも頑張ればなんでもできるってことを体現したいからです」と言ってくれた。チャレンジは若い人や一部の天才の特権ではない。羽目を外したり、緩んだり、弱い部分を持つ「普通」の人だって、自身と向き合いやるべきことを見つければチャレンジができる。自分のことを「普通」だと思っている、多くの人が今いる自分の場所から一歩踏み出し、今この世の中で何が起こっているのか、このままだとこの先に何が起こるのか、必要な情報を自ら掴みにいき、そこで感じたこと、考えたことが、自らを新しい場所に動かしていく。一人一人が挑戦をすれば、日本はこれまでに見ない「進化」を遂げることができるのだろう。

執筆:鈴木光平 取材・編集:BrightLogg,inc. 撮影:戸谷信博

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