デザインや各種相談、果ては占いまで。個人のスキルを売買できるプラットフォームがある。スキルのフリーマーケットを謳う「ココナラ」だ。
登録ユーザー数はすでに80万人を突破。多くの人々に知られるサービスとなった。
そんな「ココナラ」を立ち上げた株式会社ココナラのCEO南氏は、強い信念を持ってサービスと向き合っていた。彼がここまでひたむきになれる理由はどこにあるのだろうか。
「僕のキャリアは、高校2年生から始まるんです」と、開口一番に語る南氏。
自身のキャリアを振り返る上で、高校生にまで遡り鮮明に記憶を辿れる人間はそう多くはない。いったい、南氏は学生時代になにを思い、考えてきたのだろうか。これまでのキャリアを振り返りながら、南氏の人生を伺った。
南 「高校2年生のとき、大学受験が目の前に迫ってきていたのですが、なかなかリアリティがなくて進路を決められなかったんです。だから、将来のことを考えるために職業について調べようと思い、手始めにさまざまな業界について調べました」
業界本を手にして、職業についての知識を深めたという南氏。17歳当時、ピンときた職業が「商社マン」だった。
南 「もともとアウトゴーイングな性格だったことや、単純に世界を相手に働けることへの憧れがあって商社マンになろうと決めました。とくに、そのなかでも社風が合いそうに感じた三井物産株式会社(以下 三井物産)に入社しようと考えたんです」
数々の商社から、自身の性格に合う企業として選んだ三井物産。当初の課題であった進路選択も「三井物産に就職する人が多いから」と慶應義塾大学経済学部へと絞られていた。
南 「大学に入学してからも、三井物産に就職するなら英語くらいは喋れたほうがいいだろうと考えてアメリカに留学しました。すべての判断基準は、三井物産が軸になっていたんです」
しかし、その後起きた日本を揺るがす大きな事件が、南氏のキャリアを大きく変える。
南 「僕が大学3年生だった、1997年11月のことです。とある朝、山一證券が自主廃業したとのニュースを目にしました。これだけの大手企業が自主廃業を余儀なくされる時代なのかと衝撃を受けて、すぐさま金融業界に進むことを決断したんです」
日本の現状を受けて、迷うことなく進路を変更したという。真面目に頑張ってもリストラされる人が増えるのなら、南氏はそんな現状をサポートする仕事をしようと考えていた。
南 「投資銀行やコンサルティング会社などをいろいろと検討した結果、企業再生の豊富な歴史を持つ住友銀行(現 三井住友銀行)に入社することにしました」
企業の支援を行うために、銀行に入社した南氏。しかし、当時の銀行には、企業再生を行えるほどの余力は残っていなかった。
南 「銀行も銀行で、自分たちが生き延びるだけで精一杯だったんです。企業再生に力を入れられるほどの余裕がなくて。そんなとき、たまたま専門誌で企業買収ファンドが日本で成長していると知りました。これはすぐに転職をしようと考えましたね」
日本で最初の企業買収ファンドであったアドバンテッジパートナーズへの転職を決めた南氏。今でこそ名の知れた企業であるものの、転職当時は決して大きな企業ではなかった。大企業からの転職に対する不安はなかったのだろうか。
南 「少なからず不安はありました。銀行からスタートアップと言ってもよいサイズの企業への転職、しかも第一子が生まれたばかりのタイミングだったので、お金が必要だという事実もありました。でも、当時は銀行で企業再生に対する活動もなかなかできず、だんだんと働くことそのものへのストレスを抱えるようになっていた時期だったんです。妻や子どもに対して“ふたりを食わせるために我慢して働いている”と思ってしまうようになるのではないか、胸を張って自分の仕事を子どもに話せないのではないか、という気持ちが募っていたので、思い切って転職を決断しました」
アドバンテッジパートナーズでは、企業の買収・支援など想像通りの業務が待っていたと語る南氏。
優秀なメンバーのなかで働くことで、だんだんと企業のなかで際立つ存在になるための方法が確立されていった。
南 「周囲のメンバーがみんな東大卒・コンサル出身・MBAホルダーのような環境のなかで生き残るためには、なにかひとつの領域に絞って強みを持つことが非常に大切でした」
人それぞれ、領域による得意・不得意がある。南氏は前職でも関わりのあったファイナンス領域に特化してメンバーのなかでのポジションを確立したという。
南 「とくにファイナンスに詳しいわけではなかったですが、『なんでも聞いてください』と宣言して、社内で挙がる質問をひとつずつ解消していったんです。最初はわからないことでも、だんだんと知識として蓄えられるようになるんですよね。そうやって、知らないことにでも飛び込んでみることで、少しずつできることを増やしていきました」
企業再生を行なっていくなかで感じたのは、自身の次のキャリアだった。
自分の良さをこれから先も活かして働くには事業を興すべきなのではないかと考えていた矢先、またしても南氏にとっての転機となる大きな出来事がやってきた。
―― 2011年3月11日、東日本大震災。
多くの命が奪われ、人の命と向き合ったときに南氏が考えたことは、これまで自身が携わってきた「支援」の存在感だったという。
南 「僕はこれまで、人の生きる力につながる支援をしたいと考えてキャリアを積んできました。銀行やファンドを選んだのも、いくつかのNPO立ち上げに関与したのも、根底にあるのは人が自分の力で自分らしく生きるためのサポートをしたいという、ただひとつの理由です。でも、東日本大震災を経験して『そもそも、生きていないと意味がないのでは?』と感じるようになりました。それなら、生きることにもっと寄り添った“なにか”に携わりたいと考えたんです」
「ココナラ」を立ち上げる以前、3ヶ月ほどヘルスケア領域のサービス立ち上げを考えていたという。ただ、ヘルスケアサービスを立ち上げるためには、さまざまな弊害があった。
南 「当初、オンラインで医者や看護師がユーザーの悩みに答えるようなサービスの立ち上げを検討していたんです。しかし、ヘルスケア領域に挑戦するには莫大な費用や人脈がないと難しいことがわかったので、違ったかたちのサービスを模索し始めました」
そこで、飛び出したアイデアが「個々人のスキルを活かすサービス」だったという。
南 「共同創業者のひとり、新明(しんみょう)が発案したアイデアだったんですが、初めはサービスとしてのイメージがあまりできませんでした。ただ、人の役に立つという観点で考えると、誰かのスキルが違う誰かのためになり、それ自体がスキル提供者の自信につながっていくような未来を描けるのだと気が付いたんです。“スキルをお金にできるサービス”ではなく“スキルをだれかの手助けにできるサービス”として、ココナラが走り出すことになりました」
これまで、たったひとつの強い意思をもって歩み続けてきた南氏。ここまで事業を大きくするために、意識してきたことはどのようなことなのか。
南 「思いを発信することですね。創業前に、レオスキャピタルの藤野さんからいただいたアドバイスで心に残っているものがあって。“開けたい門があるときに、門番の姿をした人が鍵を持っているとは限らないんだよ”という言葉でした。意訳すると『どこにチャンスがあるかわからないから、会った人全員に、夢を語って、その時欲しいものを言え』と」
人は共感すると応援したいと思うが、なにをしてあげたらよいかは意外とわからないもの。だからこそ、常に全力で走り続け、夢を語り続けることで、ベンチャーに必要な応援団が集まってくるのだ。
「起業やスタートアップへの転職を迷っている人へアドバイスをするとしたら?」という編集部の問いにも、南氏のひたむきな姿勢は表れていた。
南 「もしもチャレンジするかしないかで迷っているなら、まずはやってみたらいいと思います。踏みとどまるくらいのことなら、初めからやらなければ良かったということですから。また、そもそもなにを頑張っていいのかわからない、という場合もあると思います。そんなときは、一生かけてやりたいかどうかわからないことでも、今目の前にあるなにかを全力でやってみることが大切だと思いますね。全力で突き進んでみることで、愛か憎しみのどちらかが生まれて、それが次の動機になる。そんなことを繰り返していくと、振り返ればなにかしらの線となって、自分自身のキャリアになるんですよ」
南 「僕は、僕がいる世界と、僕のいない世界の差分が、自分の価値だと思っています。僕がいなければ、この世にココナラは生まれなかった。だからココナラは、スキルを持つ人のためのプラットフォームとしてこれからも走り続けます」
執筆:鈴木しの 取材・編集:Brightlogg,inc. 撮影:矢野拓実