買い物をしていると、レジの横に真っ赤な「キャッシュレス」を促進するポップを見かける頻度が増した。ポップをよく見ると、最下部には“経済産業省”の文字。それは経済産業省の取り組みの一環で、2019年10月〜2020年6月の9ヶ月間、対象店舗で、登録されたキャッシュレス決済手段を用いて買い物をした場合には、最大5%が消費者に還元される施策だ。日本でのキャッシュレス推進に向けて、お得感を入り口に体験を提供している。この取り組みを束ねているのは、経済産業省 キャッシュレス推進室長の津脇慈子氏(以下、津脇氏)だ。今回は、津脇氏に経済産業省が描くキャッシュレスの未来やスタートアップとの取り組みについて尋ねた。
2004年の経済産業省入省以来、約2年のスパンでさまざまな局を巡り、大型の交渉や大規模な仕組み作りなどを行なってきた津脇氏。そもそも、スタートアップとの出会いは2014年頃まで遡るという。
津脇 「経済産業省は、経済に関わるさまざまな分野を担当します。このため、私も異動の度に、いろんなステークホルダーの方々と関わり持たせていただきながら、施策の検討や実行などに携わってきました。特に、スタートアップとの連携の必要性を実感したのは、2014年頃でした。当時の私の仕事は、省内の部局を超えて、2050年に向けて国内外の情勢変化を踏まえ政策プランを考えることでした。とはいえ、あまりに未来のことで手触り感がありませんでした。そこでまずは身近なところからと、半分業務の息抜きに、省内業務改革に取り組むことにしたんです。予算不足で制約だらけの中、初めてスタートアップと手を組んで、アジャイル型で省内システムの開発を行いました。省内システムを曝け出して、老若男女の職員とスタートアップの方とで使い勝手をディスカッションしてもらい、進捗毎に方向性を一緒に再検討していく、そうした開発のやり方は初めてで、本当に新鮮でした。そのときのことを、取材してくださった記者の方が『経済産業省内だけの取り組みではもったいない。市場が一つの省では小さい』と言ってくださったのをきっかけに、同じような課題を抱える複数の自治体を呼んでスタートアップとつなぐ機会を作りました。スタートアップ支援に注力している自治体は多いですが、自身の自治体内に拠点を置くスタートアップの支援に留まっていることが多いです。でも、そのスタートアップが当該自治体を超えて活躍できるように支援するためには、自治体同士が互いの市場を開放し、互いに他自治体のスタートアップも受け入れる環境を作り合うことが効果的だと思うんです。そう考えたとき、経済産業省だからこそ、ハブとしての役割を担えることがあるのではないかと考えるようになりました。VCやスタートアップの方々とつながる機会が増えていったことで、世界各国のスタートアップ・エコシステムを知りたいと思うようになり、シリコンバレーや東南アジア、インドなどにも足を運びました。現地の最前線で働く方々にLinkedInやFacebook Messengerなどでアポを取り、自らの足で会いに行っていました。そうして出来たつながりや仕事の仕方は、その後の仕事を進めていく宝となりました。例えば、IoTの推進を担当していた際も、それまでにお世話になったいろんな方のご協力のもと、国内外のスタートアップや大企業の新規事業との連携を軸に、進めていきました。現在行なっているキャッシュレス・ポイント還元事業にも、こうした経験が活きています。この事業の素案は省内の若手職員の一人が、キャッシュレス推進に向けた取り組みとして考えついたことがきっかけで始まりました。最初は2名で始めたプロジェクトでしたが、数ヶ月後の2018年10月にはキャッシュレス推進室を立ち上げ、メンバーも増え、スタートアップを含むさまざまな方々と連携しながら、事業の骨組みを作り2019年10月から事業を開始。今に至ります」
2020年、2025年と、日本は大きな国際イベントを控え、キャッシュレス推進にも高い注目が集まっている。実際、津脇氏も、キャッシュレス・ポイント還元事業による社会の変化には大きな期待を抱くと語る。
津脇 「キャッシュレス推進の目的は、消費者の利便性向上だけでなく、お店の生産性向上にもあります。お店の目線に立つと、現状はレジ精算業務に膨大な時間を要していますが、キャッシュレス化によってその負担を大幅に軽減できると考えています。また、訪日観光客に対して行われたアンケートでは、訪日外国人の約7割が、『クレジットカードなどが利用できる場所が今より多かったらもっと多くお金を使った』と回答したという結果も出ています。2020年からの5年間は国際イベントも続く時期ですから、すでにキャッシュレスが当たり前の国々の方の来日を考え、インフラとして、少しでも早い推進が必要だと考えています。現金が使われることが悪いことだとは思いません。現金がなくなるとも思っていませんから。ただ、決済は、顧客接点を作るための重要な要素になると思います。キャッシュレス化によって、現金では取りきれなかったデータが得られることで、もっと顧客を知ることができ、もっといいモノやサービスを、もっと最適なタイミングで提供できるかもしれない。また、そもそも精算時間が短縮されるので、もっと接客に使える時間を増やすこともできる。労働力人口が減少する中、日本では、ますます“おもてなし”文化を維持することが難しくなっていきます。キャッシュレスは、消費者に利便性を提供するばかりではなく、一人ひとりに寄り添った日本らしい接客文化を実現させ続けるためにも重要だと考えています」
キャッシュレス推進室では、キャッシュレス化のための一歩目として、現在行なっているポイント還元事業をスタートさせた。背景には、日本人に「キャッシュレスは便利」だと知ってもらいたい想いがある。
津脇 「日本には長らく現金文化が根付いていました。そのため、キャッシュレスを取り入れる動きがなかなか進まなかった。だから、『まずは体験だけでもしてみてほしい。そうすれば、利便性に気づいていただけるはずだ』と思ったんです。交通機関で利用するSuicaのようなプリペイドカードも、『切符で十分』と思っていた方すら一度使うと便利で使い続けていることがほとんど。今では、しっかりと普及していますよね。まずは、キャッシュレスをとりあえず一度使ってみようと思ってくださる消費者、お店の方を増やしたい。それが、このキャッシュレス・ポイント還元事業の狙いです。『とりあえず使ってみよう』という最初の波さえ起こすことができれば、後は、民間企業の皆様が消費者やお店の方が便利だと思える魅力的なサービスを提供して、その波を大きくしてくれるはず。だから、政府としては、なかなか動かない重い玉を、まずは少しだけ、『お試し』でいいから動かしてみることから始めました」
キャッシュレス・ポイント還元事業の走り出しから3ヶ月(*)。すでに、100万店近くの店舗が本事業に参加しており、参加店舗のキャッシュレス支払い比率は事業開始前から1.25倍に増加したとの結果が表れている。また、キャッシュレス決済を週に一度以上使用している人も、6割を超えた。着実に成果が挙がっている。
*2020年1月取材実施時点
津脇 「最近の国民の消費行動の分析結果を見ると、実は、ポイント還元対象決済のうち、1,000円以下の買い物が6割を超えています。つまり、クレジットカードで大きな買い物を行うのではなく、日常の買い物にキャッシュレスを活用する人が増えている。これは、消費者の行動が大きく変わった証だと思います。小さなお買い物は小銭で支払っていた時代から、小さなお買い物こそキャッシュレスで支払う時代に変化しているんです。私たちが理想としている消費行動のあり方に近づいているな、と考えています」
国の取り組みを、スタートアップなどの民間企業とともに作っていく。官民で作ったムーブメントから新たな民間事業が生まれる。この官民連携の動きは、今後の日本にとってはなくてはならないものだ。津脇氏はそう捉えている。
津脇 「日本は、どんどん人口減少が進む国です。お金を集めることよりも、人を集めることのほうがよっぽど難しくなっていく。生き方・働き方が多様化する中、より企業の人材獲得のハードルは上がっていくでしょう。人の確保も難しく、変化の激しい今の時代においては、官民関係なく、組織を超えて、人と人の『共感』によって柔軟にスピーディーにプロジェクトを進めていくことが重要になっていく、私はそう感じています。今回のキャッシュレス・ポイント還元事業も、時には反対の声や厳しい意見も頂きながら、官民さまざまな方の『共感』に支えられて実現できた事業でもあると思っています。事業の実施に当たり、数多くの決済事業者やお店の方に直接話を何度も何度も伺いました。決済事業者の方々とは『日本のキャッシュレス化を進める』という共通の目的のもと、本当に厳しい調整をさせていたこともありました。お店の方にも、直接、事業について話してみると、役所作成の資料や言葉ではなかなかその趣旨や思いが伝わらず、手痛いお言葉を頂いたり、本当に勉強になりました。消費者の皆様からも、新たな発表をする度にさまざまなご意見をいただきました。政府の対応としては賛否両論あると思いますが、こうした多様なフィードバックやご意見を踏まえ、設計段階のみならず事業期間中も含め運用を何度も再考し変更・改善してきました。そうして作った取り組みだからこそ、今多くの方に届いているような気がしています。そして、この波から、民間同士の合従連衡を経て、新しいサービスが生まれてくることを期待しています。官民連携って複雑な言葉だけれど、実は、そんなに難しくない。同じ目線で対話を繰り返すことで、きっと良い循環が生まれるのだと確信しています」
執筆:鈴木詩乃取材・編集:BrightLogg,inc.撮影:小池大介