スタートアップ企業向けの広報支援や組織開発を手がけながら、採用広報領域での起業準備を進める稲荷田和也さん。X(旧Twitter)では「スタートアップ伝道師」としても情報発信を続けています。
そんな稲荷田さんはハードに働いて成長したいという思いから、2019年に上場を控えたスタートアップに新卒として入社。その直後に子供を授かり、ハードワークと育児の両立を目指すも体調を崩してしまった経験があります。
インプットや自己研鑽、人脈の拡大などに励む人の多いスタートアップの世界。時にはハードワークも求められますが、心身ともに疲弊することもある育児との両立は「可能だ」と稲荷田さんは自身の経験から訴えます。
2023年3月期決算から上場企業などおよそ4,000社を対象に「人的資本の情報開示」が義務化されるなど、多様な働き方の包摂は待ったなしの経営課題。
稲荷田さんが「失敗談」と語る経験から得られる学びは少なくないはずです。
(聞き手・編集=高橋史弥 / STARTUPS JOURNAL編集長)
あの時のことは、まだリアルに覚えています。
新卒で400人規模くらいのスタートアップに入社しました。当時は未上場でしたが、数ヶ月後には上場することになる会社で、いわゆる「メガベンチャー」に属するかもしれません。
インサイドセールスとしてキャリアをスタートさせ、2ヶ月くらい経った5月末のことです。夜10時くらい。会社に残って、翌日電話をかける顧客リストの整理をしていました。
人も少なくなったオフィス。当時交際していた女性からLINEがポンポンと立て続けに送られてきました。「早く仕事を終わらせたいのに。なんだろう」と思ってみたら、妊娠検査薬の写真でした。自分も見るのは初めてでしたが、子供ができたとすぐに分かりました。
当時は焦りしかありませんでした。そもそもスタートアップに入ったのは「どんどん成長したい」という気持ちがあったから。平日の深夜も、それこそ土日だって成果のためなら仕事に捧げたい。そんなタイプでしたが、仕事だけでなく家族にも向き合う日々が始まりました。
子供が産まれたのは2020年1月のこと。当時まだ新卒1年目の終わりで、人間として、大人として成熟していなかった。夜中に3回も4回も起きて夜泣きに対応し、睡眠時間も足りない日々が続き、夫婦二人で共倒れのような状態でした。
子供が産まれた頃は仕事の調子も良く、周りから高い評価を頂く事もありました。ただ偶然にも調子のピークを過ぎてしまい、焦りが出てきたところに育児の大変さも加わった。追い打ちをかけるように日本でも新型コロナウイルスの感染が広がりはじめ、リモートワーク体制になりました。
私がリビングのテーブルで作業するすぐ傍で、妻が新生児をあやしたり授乳したりしているような環境でした。私はインサイドセールスという「電話してナンボ」という仕事。さすがに環境としては辛すぎた事もあり、極力メールでのアプローチに切り替えたり、妻が散歩している間に一気に電話をかけたりしてなんとか対応しました。
元々、「何者かになりたい」と思って入ったスタートアップの世界。ですが入社当時ほどギラギラできず、ある程度のパフォーマンスを出すのが精一杯になりました。平日夜の交流会や勉強会、セミナーにもどんどん参加して人脈を広げ、パワーをもらいたかったけれど、ほとんど行かなくなりました。
結局、在籍中に2度ほど調子を崩し、そのうち1回は抑うつの診断が出ました。
なぜこうなってしまったのか。
私のいたスタートアップは入社時で400人ほどの規模だったこともあり、いわゆる「ホワイト」な働き方も選択できる環境でした。ただ、自分自身で複数のプロジェクトに挙手して仕事を増やし過ぎた。ゼロから立ち上げてリーダーを務めたこともあります。自分が調子を崩すなんて思ってもいなかった。周りは「大丈夫?」と気遣ってもくれましたが、「いや、自分やり切るので。結果出すので」というスタンスを取ってしまった。そうこう言っている間に会社の方針も変わって、自分のセールスのやり方と合わない部分もあって成果が出づらくなった。
子供が産まれたことに対しても気遣いの言葉が欲しかった。みなさん「おめでとう」と祝福してくれました。一方で「パパになるんだったら頑張らないとな」という悪気のない言葉がしんどかった。ただでさえ理想の自分像と現実の間にギャップが生まれ、開いていくのに、追い討ちをかけられるような感覚すらあった。「何かあったら話してね」みたいなコミュニケーションを私は欲していたんだと思います。
在籍中の不調は、社内のポジション替えなどで回復していきました。私はその後、退職して独立します。そこでも自分にオーバーワークを課してしまい、ついに「働けなさそうだ」という状態に。結局、双極性障害の診断を受けました。
2ヶ月くらい、療養のために時間を費やしました。
この間に自分のこと、家族のことを振り返りました。生活のルーティンも整えた。睡眠時間はしっかり確保して、朝は毎日5キロのランニング。就寝前は瞑想をするし、「ジャーナリング」といって自分が思ったことをノートに書き出して俯瞰する習慣もつけました。この1年くらいは調子を崩さずに働けています。
スタートアップでガンガン働きながら育児にも取り組み、一時期働けなくなった自分だからこそ敢えて主張したいことでもありますが、「スタートアップのハードワーク」と「育児」は両立できます。これからスタートアップの世界に飛び込もうと思っている子育て世代の方は、ハードルを過度に高く感じる必要はないと思います。
一昔前はともかく、今はアーリーフェーズの会社の創業メンバーでも子育てをしていたり、育休制度が整っているスタートアップもあったりします。フレックス制度のスタートアップならば、朝晩のお迎えにちゃんと行きつつ、空いた時間に働いてもいい。
とはいえ、これは良い面を切り取りすぎだとも思っていて(笑)。自分自身が起業準備中だからこそ分かるのですが、いきなり子育て世代向けの福利厚生を充実させるのは難しいよな、と身に沁みて感じます。だから入社を検討するスタートアップがあれば、どれくらい事業が伸びているのかとか、福利厚生の内容、それに子育て世代の社員がどれくらいいるのかを確認するのがいいと思います。会社にとってもそれが多様性になり、ひいては採用の競争力になる。
これは性善説かもしれませんが、そもそも「頑張りたいけど子供のお世話もあるし…」って悩んでしまう人はとても真面目で、仕事の意欲も高いはず。そういう部分を買ってくれる会社だって、あるはずです。
子育て世代を受け入れる会社は、たとえば「子供が熱を出しちゃって…」という連絡が社員からあったら、「申し訳ないモード」にさせず、気楽に迎えに行ってもらうような環境を作ってほしい。
もちろん、とても難しいことではあります。ですが心の底から「お迎え行ってらっしゃい」と言えるチームを作ってほしいのが私の願いです。
2023年7月31日、二人目の子供が産まれました。起業準備に奔走するタイミングと重なりましたが、今回はとても前向きに、嬉しく思っています。
子供がいるからこそ、平日の日中に仕事をやり切る覚悟が芽生えました。私はストイックで潰れやすい性格ですが、子供がいると公私を切り替えざるを得ない。リフレッシュの良いきっかけを貰ったと考えています。
「育児がなければこんなこともできたのに…」という思いが胸をよぎることも、正直にいえばありました。でも、家族がいるから覚悟が生まれた。今こうして持続可能に頑張れているのは、家族の支えがあるからこそです。
最後に。子育てとスタートアップを頑張る人に伝えたい教訓があります。それは、子供を大切にするのはもちろんですが、自分の幸せを蔑ろにしないで欲しいということ。自分に優しくできないと、他人にも優しくしづらいはずです。仮に職場でなかなか理解が得られなくても、同じ経験がある人と気持ちをシェアするだけでも全然違ってくる。
私も自分の失敗談を赤裸々に伝えてみました。心の拠り所の一つにしてくれたら、すごく嬉しいと思っています。